誰かを傷つけるのも、誰かから傷つけられるのも、同じ成分(バイブレーション)からできています。
「誰かが」あなたを傷つけるのだとしたら、その「誰か」とは「あなたの中で振動しているバイブレーション」です。
そして「あなたが」誰かを傷つけるのも、同じバイブレーションです。
あなたがその振動を出さなければ、誰もあなたを傷つけることはできないし、あなたはあなたを傷つけることができなくなります。
他者にみえる「誰か」は、「あなた」です。
そして、ここにはもうひとつの真実があります。
そのバイブレーションは、「あなたそのものではない」ということ。
この世界には、あらゆる振動があります。
その振動は、選べるのです。
自ら、選択してください。
【大いなるすべて】【ソース・根源】から降り注ぐ光で、あなたを満たしてください。
そのときに感じるバイブレーションが、本当のあなたです。
***
*3つの家族の物語*
”声”によって見せられた3つのビジョンの最後は、母親が少女(娘)を殴っているシーンだった。
少女がベッドに横になると、私の体はそこへ向かう。
「 大丈夫だよ。あなたは悪くないよ。誰もあなたを傷つけることはできないからね。あなたは悪くないのだからね。」
「ほんとうに?私は、悪くないの?叩かれなくてもいいの?」
泣いていた少女はやがて、安心したように眠りにつく。
今度は、 体が母親に向かう。寄り添い、ねぎらいの言葉が出る。
すると母親が、堰を切ったように話し出す。
「私は、自分の感情を止められません。かーっとなると、 見境がなくなるのです。子供が親にむかって何様だ!と怒りが止められません。自分のプライドを傷つけられたような気分になるのです。自分でもこの感情のコントロールができずに、苦しいのです。」
「お母さん、その怒りを取ってあげられますが、どうしますか。そうしたら今後二度と、そのコントロールできない怒りの感情に苦しむことはなくなります」
母親は一瞬、光を見出したようにパッと明るい表情になったが、すぐに暗い顔に戻った。
「でも怒らないでそれをほうっておいたら、どうなるかわかりません。娘の反抗的な態度がエスカレートしても困ります。怒りは、しつけのためにも必要なのです」
「ではお母さん、ずっとこのまま怒りをコントロールできない自分に苦しむか、怒りを手放して叱ることのできるお母さんになるか、どちらかの選択ができますが、どうしますか」
母親は、ハッと気づいたような顔になった。
「ああ、そうですね。私は、怒るということと、叱るということを混同していました。怒りを手放して、自分が冷静になって、はじめて叱るということができるのですね。私は、娘にただ恐れを植え付けていただけだったのですね。 気づかせてくれてありがとうございます。では、その怒りを取っていただけますか?」
すると私は意外にも、こんな言葉を口にした。
「お母さん、すでにお母さんからは怒りが取れていますよ。私は、何もやっていません。お母さんが自分で怒りの玉を取ったのです。これからは、コントロールできない怒りが現れることはないでしょう。だってもう、怒りの元がないのですから」
母親は、えっ、という顔をしたが、なにかが変わっている、という感覚を確かに感じたようだった。
***
このビジョンのあと、現実に戻った私の中から、「怒りの玉」が消えてなくなっていた。
それから何週間か、怒りの感情がどういうものか思い出せなくなっていた。
***
人が怒りを手放そうとしない理由は、いくつかある。
その怒りが、「何かの役にたっている」と、無意識に感じているのである。
「この怒りを手放したら、どうなる?」と自分に聞いてみるといい。
何かの信念がみえてきたら、「本当にそれは真実か?」と問いかけていく。
こうやって、「怒りは手放してもいいのだ」と自分に気づかせてあげることだ。
***
私はずいぶん前に、マンションのエレベーターで、ある姉弟に出くわした。
小学校高学年と低学年くらいの普通の姉弟である。
普通じゃなかったのは、エレベーターの中で、姉が弟を勢いよく「グー」で殴りつけことだ。
「ゴツ!」と鈍い音がして、その衝撃たるや見ていた私が、息をのんだくらいである。
姉のエネルギーは、怒りというより、「憎しみ」に近いようなものでできていて、私は近年、こんなエネルギーの子供はあまり身近にみたことがなかったので、驚いてしまった。
ところがもっと驚いたのは、殴られたほうの弟は、普通の人間ならばとっさに取るであろう「防御」の姿勢を一切とらず、ただ突っ立って、殴られるままにされていたのだ。
構えるようなエネルギーの収縮もない。まるで、人形を殴っているかのようである。とても奇妙な感じがした。
彼は、なんでもないというような笑顔を浮かべて、私に、「ごめんなさいねぇ、こんなんで…」と姉の暴力を私に謝罪するという、これまた状況には不似合いな態度をみせた。
しかし「ごめんなさいねぇ」という弟の態度が気に入らないとばかりに、姉がもう一発、弟の頭を殴る。
私は内側に膨大なエネルギーが沸き立つのを感じて、咄嗟に「殴っては、だめ!!!」と大きな声を出していた。
エレベーターの中が、「シーン」と静まりかえり、彼女の振り上げた手が止まったのだが、そのまま彼女はうつむきながら沸き立つ怒りを押さえ込んでいるようにみえた。
男の子は、「ほらね(怒られたでしょ)」といい、またもや、なんでもないような表情を浮かべていた。
エレベーターを降りてから気づいたことは、彼らの背景にあるもっと深い部分だった。
彼女からは、彼女自身が暴力を受けているシーンが見えてきていた。
彼女は、自分が傷ついた怒りを、物や、他人や、弟に、向けずにはいられない衝動にかられ、コントロールできずにいた。
男の子からは、自分で自分の腕をナイフで傷つけているシーンが見えてきていた。
抑えきれない怒りや、「何かがおかしい」と感じる行動の背後には、何かが潜んでいることがある。
ただ叱るだけでは、本当の解決にはならない。
***
カウンセリングをやっていて、「激しい怒りがコントロールできない」という相談を受けることがある。
実はそういう人も、身内に傷つけられたり、大切な人から裏切られたりした悲しみ、憎しみ、怒りを、長年、かかえている。
傷つけられた悲しみは、やがて「怒り」となって、自分や他人を傷つけるバイブレーションの種となる。
内部にその「怒りの玉」があると、それは自分や他人を傷つける原動力となり、「いまここ」で発揮してしまうのである。
そういうものがあるとき、
「体罰」や「虐待」などというあきらかな現象ではなくても、
言葉によって、態度によって、扱われ方によって、
傷つけたり、傷つけられたりしているのである。
それが「外」に向かえば、【人を傷つける人】となり、
それが「内」に向かえば、【自分を傷つける人】となるのである。
でももう、このループは、終わらせよう。
変われるのは、私たち自身でしかない。
被害者も加害者も、同じ「バイブレーション」を持つもの同士でなければ、同じ劇場で演じることはできない。
演者のうち、誰かひとりがバイブレーションを変えたなら、登場人物のすべてが変化する。これは法則だ。
すべての悲しみも憎しみも怒りも、
私たちの中にある「バイブレーション」が映し出した幻なのだ。
目覚めると同時に、すべてが幻だったと気づく。
「傷つけたように振舞った相手」が、私たちを深く愛していることに気づく。
そちらが、真実だ。
感情は吐き出していい。
みつめて、解放していくことで、捨てる段階にたどり着くことがある。
そうして感情を解放したあとは、「いまここ」に、私たちの望むバイブレーションを生みだそう。
と、同時に、「それは本当に私のバイブレーションか?」と問うていく必要もある。
ただ単に、オーラが拡大しすぎてそこらへんのものを拾ってしまっただけ、ということがある。
それに気づいてソースに戻れば、あっさり感情も、そして信念でさえも変わることがある。
どんなやり方でもいい。
望むバイブレーションを選択していこうという、意図を持てばいい。
【大いなるすべて】【ソース】の光の中にそれは「有る」。
私たちは、
誰も本当には自分を傷つけることはできない、と知っている。
私たち自身がすでに許されている、と知っている。
怒りを手放しても、私たちは守られている、と知っている。
そして必要なことは必要な形で成されていく、と知っている。
いつでも、ただ、ソースに戻っていけばいい。